Interview with “Disciples”
Interview with Russ “Disciples” Brown at Backyard Studio, Tolworth, England.
日本語翻訳:junichi oka
このインタビューは2005年5月19日に、DisciplesのBackyard Studioスタジオにて、スエーデンのサウンドGuidelight Movement のJakob Leviが行ったものを許可をいただき、日本語に翻訳したものです。オリジナル英文はhttp://www.guidelightmovement.com/media.htm
に掲載してありますので、併せてご覧下さい。

Disciplesの名前がUKシーンに現れたのは、Jah shakaがダブプレートとして彼のチューンを80年代に中期にプレイ、そして80年代後半から、3枚のアルバムをリリースをしたことからスタートしている。Disciplesはダブクリエイターとしてそのキャリアをスタート、のちにBoomshackalackaというサウンドシステム、 Backayard Momvements等のレーベルをスタートした。そしてキャリアスタートから20年余りたち、UKシーンの強力なトップアーティストとなった。
Guidelight Movement: グリーティング!
Russ Disciple:リスペクト
GLM: では、まだDisciplesをしらない人のために、自己紹介をどうぞ。
RD:私の名前はRuss D、1985年からダブを作り続けています。Jah Shakaとは1986年からリンクし、Disciplesという名前はJah Shakaがつけました。
GLM: どうしてDisciplesなのですか?
RD:それはJah shakaが私達に名前があるかどうかたずね、私達は名前をもっていたなったので、Shakaが任せておけといって、ある日、サウンドシステムのMCで、私達のチューンをかけるときに、”this one Disciples in the area”と紹介し、名前をくれました。
GLM : どのようにしてShakaとリンクしていったのですか?
RD :わたしと兄は長い時間レゲエファンです。そして兄は私よりも早くレゲエファンで、彼は私にレゲエを紹介してくれました。それは1978年ごろのことです。しかし、そのとき単なるリスナーです。しかし、1985年私に音楽を作りはじめはじめました。はじめはベースギターを選びました、そして兄はリズムギターが弾けました。しかし、私は色々実験を始めました。2台のカセットデッキを同時に流し、マイクを低音用のベーススピーカーで流したり、逆に高音用のスピーカーで流したりと、それは、非常に限定的なものでしたが今で言うとリミックスを始めたのです。それは非常に興味があることでした。そして町にでると、4トラックカセットレコーダーというのが売られていました。非常に高価なものでしたが、何とか買いました!
RD : 最初はかなりひどい、本当に冗談のようなものでした。しかしどこからでも、なにかを学ぶべきです。そして私達はそこから学び、徐々に良くなっていきました。また、はじめはレコーディングに興味を持っていたのですが、リズムギター、メロティカ、パーカッションなどを加えていきました。
RD : 私たちはレコードによる音楽を常に愛していました。そしてダブプレートについては知っていました。そして自分てアナログカッティングしたいと思っていました。そして多くのレコードショップに行きました。そしてCamden Townにある、スペシャルなショップ”Flash Forward”に出会ったのです。そこのスタッフは、shakaの大ファンで、いつもshakaのセッションテープをプレイしていました。私と兄は shakaの名前は知っていたのですが、サウンドシステムに行ったことはなかったのです。それは私達が郊外に住んでいたからです。
RD : そして私は、ダブプレートをカットし、意見をもらいにいったら、「shakaのところに持っていくべきだろう」、といわれました。そしてもう1つのレコードショップ、Peckings(あのスタジオワンのパートナー)にいくと、まったく同じことを、「shakaのところに持っていくべきだろう」といわれました。その時shakaは、アート&クラフトショップをNew Crossに持っていて、私と兄はバイクで、New Crossのshakaの店まで行きました。そのときshakaは店にいませんでしたが、店員がshakaは週末には来るといっていたので、ダブプレートを置いて、家に戻りました。土曜日に、私達は再びshakaのショップを訪れると、そこのshakaが立っていて、私達のダブプレートを持っていました。そしてshakaはそれぞれのトラックについて4枚ずつ、そしてそれ意外になにかあるのならほしいといいました。私達といえば、サウンドシーンについては全く知らず、ただ、意見を聞きたいだけでした。そして、shakaはダンスに来るようにと私達にフライヤーをくれました。それは土曜にPeckham Selfhelp Centerに9PMと書いてありました。私と兄は9PMに行ったのですが、まったくなにもありませんでした。shakaのダンスを知るものなら9PM(フライヤーに9時スタートとかいてあっても、通常9時にははじまらず、12時ぐらいからスタートする)にはだれもダンスに出かけませんが、私達は全く知らなかったのです。しばらくカフェで時間をつぶしていると、ドレッドロックスが一杯のったミニバンがきたので、shakaは来るのかたずねたら、後で来るといわれ、もうしばらく待つことにしました。一時間ぐらいすると、大きなバンが到着し、スピーカーを運びいれ始めたのでした。それは私達にとって、都合のよいことでした。なぜなら、サウンドシステムの設置をすべてを見ることができ、まさに「オールドスクール」といえるものだったからです。
GLM : どうやってはじめてのダブプレートを作り上げたのですか?
RD:その時点で私たちは初心者でした。私達がしたほとんどのことは、私達が愛している曲をリメイクすることでした。私たちは、いくつかのリズムを借用し、ベースライン等を私達の好きなように変えたのです。それはスタジオワンでやられていたことのようなものでした(解説:ジャマイカンファンデーションレーベル、スタジオワンではトラックをいれかえたりしてリフレッシュすることがよくあった)。しかし、私達は、家で普通に音楽をきいていたので、ダンスの現場でそれがどのような意味がある物か、理解できていませんでした(解説:ようはリメイク、リミックス、ダブ・ディスコバージョンといったことがサウンドシステム用に考えられていたということを知らなかった)。
RD : 私は多分同様、いくつかのインタビューにおいてこのことを繰り返し言ったでしょう。それはshakaがその日にかけた曲です。私はよくそれを覚えていて Johnny Clarkの「Bad days are going」です。私は12インチのGreensleevesを持っていました。しかし、shakaのサウンドへ行く前までは、Bunny leeプロでデュース、king tubbyミックス1976年(解説:オリジナルテイク)とは異なり、1980年の軽いのりのステッパー楽曲です。それはその時私は好きでなかったので、手放してしまいました。そして、shakaはそのダンスにてその曲をプレイさせました。そのとき初めて、その曲の本来のパワーがわかりました、ブーン、ブーン、ブーンとなるサウンドの力によって。そしてそれが何のために製作されたかについて理解しました。それはコーヒーでも入れながら自宅で聴くために作られたのではなく、サウンドシステムのために作られていたのです。そうです、強力なサウンドシステムの音圧においてプレイされる楽曲だったのです。そのことがトリガーとして私の考えをかえてしまいました。私は家にもどり、良いヘッドホンを持っていました。それで、私はベースラインをグラフィックイコライザーで思いっきり上げました。私のヘッドホン内で、それはshakaサウンドらしくなりました。これらのことがターニングポイントとなったのです。
GLM : 質問をもどりますが、どのようにして、ダブプレートから、実際のファーストLPリリースに至ったのですか?

RD :うーん、その時点で私たち趣味として音楽をやっていました。しかし、jah shakaは彼のアルバムに私たちの曲を入れることを決定しました。我々はまだ、音が本当に薄くチープすぎると感じていたので、再録音することを考えました。よって、地元のスタジオ(レゲエのスタジオではありません)へいって再録音したのです。そのスタジオのエンジニアはレゲエのことは全然知りませんでした。そして私のスキルは4トラックミキサーのあつかいだけで、高度なスタジオ設備をはあくできているわけではなく、ただたんに大きなリバーブ欲しいとかの注文をすけました。そしてエンジニアはその通りい大きなリバーブを設定してくれました。それはスタジオ内では良くきこえたのですが、家に帰って聞くと、単なるピュアなリバーブであることがわかり、まったく効果的でないことがわかりました。私は時間とお金の無駄をしたのです。
RD : Jah shakaは我々のテイクを24トラックで録音したようなものだと言い続けていました。。よって、アルバムに入れることをOKとし、かれはアルバムをリリースしたのです。。その時点で、シーンは非常にアンダーグランドでした。かぎられたアーティストShakaやTwinkle Brothers、そしてかなりの変わり者Dub Judah等のみがリリースしていました。私たちはまだ趣味として考えいたのですが、彼は約4年で4つのアルバムを出して私達のテイクを収録しました。当時我々はビジネスを全く知らなかったので、私たちはただのshakaファンでした。そして私たちは私たちの曲がshakaのダンスでかかり、マッシュアップするのがみていて楽しかったのです。
RD : 1989年から1990年には、シーンが活性しはじめ、ManassehやSound Iration等が出てきました。かれはは私達と同じ白人です。そしてビジネスやメディアの扱い方を少し知っていました。KISS FMでもダブ&ルーツがかかるようになり、関心を集めていました。1986年当時、shakaのダンスは黒人しかいませんでしたが、このころになると白人もダンスで見られるようになりました。
RD : ロンドンの白人は長い間ダブシーンを知らなかった、もしくは危険であったのでダンスにはいかなったのですが、突然白人がダブ&ルーツを作り始めたのです。90年代初頭、shakaはrocketでプレイしはじめました。rocketは大学の町です、1500人の黒人でない、またレゲエファンでない生徒達が、shakaを楽しんだのです。
RD : ダンスは人で溢れかえっていました。それはバブル寸前といっていいでしょう。多くのメディアは注目をあつめ、レコードレーベルも興味を思っていました。しかし、私達にしてみると、まだ、趣味でした。しかし、徐々に真剣に、私達自身の手によってなにかをスタートすべきだと感じ始めました。いつまでも、 shakaにたよってはいけないと。なぜなら、shakaはshakaでやることがあったし、彼の周りには多くのサポートすべきアーティトがいました。その上、shakaは大きなレコード会社を動かしているわけではなかく、私達とおなじインディだったのです。
RD : 私たちは、私達と一緒に12インチをリリースしたがっている友人知っていた。そして私達は、トラック”Prowling Lion”を持っていました。それは1990から91年ごろの話です。私たちは、”prowling lion”のラフなミックスをいくつか持っていて、それを彼はリリースしようとしましたが、実現せず、2年後に結局自分でリリースすることを決意しました。そう、そのとき私は普通に働いていたのだが、もうすぐ職がなくなることがわかっていたので、今回はシリアスにやろうとしました。
RD : 趣味で音楽を作っていたよい時代は過ぎ去り、私達はファーストチューンをリリースしました。私達はすこしナーバスになりました。そう、レコードショップにいって売り込むということがどうゆうことか、わかりますか?レコードショップはだれも私達のことはしらいない、そしてディストリビューターもいない、レゲエショップはジャマイカのプレリリースばかり扱っていた時代に、どうやって売り込むのでしょうか?しかし、私達はやりました。
GLM : OK、では、そのあと、いつ、ボーカルテイクをリリースするようになったのですか?

RD : そうだね、1989年ぐらい、シンガーの最初は、私は私の良い友人であるjonah danだ。かれは私達の宣伝マンみたいなもので、またレーベルのパートナー&スタッフでもある。1988年、レコードショップを通じて知り合いました。そして彼は歌いたがっていたが、かれはシンガーとしての才能は確信もっていなかったのです。そこで、かれは友人であるSister Rashadaをつれてきて、かれの歌唱のコーチとして手伝ってもらっていた。しかし、彼女自身もいくつかのリズムを気に入ってくれて、Sister rashadaもボイッシングしたのだ、それは1990年だったと思う。
兄はそのとき、”boomshackalacka”マガジンをやていた。そしていくつかのアーティストとコネクションがあり、Willie Stepper(Creation Steppers)とインタビューとしていると、彼はレコーディングに興味があるといい、私達のスタジオにきたのです。
RD : だから私たちは非常に早い時期にボーカルテイクももっていたのです。それから兄の友人である”rootsman” 、”Dayjah”は、私達のリズムを気に入り、我々と一緒に仕事を始めました。最初のボーカル曲はrashedaだと思う。1991から1992年の間だと思う、おそらく。”Only Jah Worthy” と”Give Jah Praise”のカップリングだ。そうです、私達は早い時からボーカルチューンをリリースし、そしてそれはルーツ&ダブスタイルのものだった。
RD : 私達のUKシーンとジャマイカのシーンに違いが多くあったにしても、私はいつもジャマイカスタイルを愛して、ジャマイカテイストを含めるようにしていた。しかし、やはり、私達はダブを製作することに集中しました。そしてダブはその時点では非常に人気がありましたね。また、私達は多くのシンガーを抱える予算があるわけでもないので、そうするしかなかったともいえます。同時に、私たちはサウンドシステムを購入したので、毎月のローンをしはらわなければいなかった。(解説:ジャマイカで、90年代にはダブはほぼ生産されていない。よって、UKとジャマイカではかなり違い、シンガー&DJテイクを量産していくジャマイカと、10インチダブフォーマットにこだわっていくUKシーンの違いを背景に述べていると思われる)
GLM : どのようにして、 boomshackalackaサウンドシステムを作り上げたのですが?それはれはあなたの興味があったのか、それともshaka shakaのサウンドで経験したカルチャーショックがそうさせたのか?
RD : それは、我々があきらかに愛しているものです。以前にはサウンドシステムを組むことを全く考えていませんでしたが、しかし、ある日、兄はクラブにJoey Jによって、DJとして招待されました。Joey Jは、定期的クラブでプレイしていました。その日はReggae Revive recordsをやっているBob Brooksも招待され、プレイしていました。兄もプレイしました。主にオールディーズです。私達は、そのときrashadaのチューンをカセットでもっていて、クラブにカセットプレイヤーあることを見つけました、rashadaのチューンをかけれるぞと確認したのです。そしてそこで、兄とBob Brooksはオールドチューンで競ったのです。
RD : その夜は、何人かの人々が私たちをDisciples としては知っているようでした。そして、私たちは私たち自身のいくつかの曲をプレイするとおもっているようでした。私達の曲はshakaのサウンドで知られていたのです。そしてrashadaのテイクをかけました。クラブはマッシュアップです。それはとても楽しいことでした。そして Joey J は他の場所へもDJとして招待するようになったのです。
RD : “Eastern Cheer”といわれるアジアンサウンドがあり、私達は招待されました。なぜならアジアンサウンドは常にshakaのファンであったので、私達の人気もあったのです。そこにはJoey Jのセットでいきました。Joey Jは自分のサウンドシステムのことを心配していました。なぜなら、私達は思いっきり音量を上げるからです(解説:音量を上げすぎてスピーカをとばされたらたまらないとかんがたのでしょう)。Joey Jはベース音をカットし、クールに行こうぜという。そのことを私達は少し窮屈に感じてきました。そこで私達は自分のサウンドを持つことを考え始めました。兄はすでに家族があったので、かれにはそれはできなかった。そして、私は自分でローンを組み、オリジナルのサウンドシステムを組んみました。出来上がるまで9ヶ月、そのあいだ、Joey Jとのショーには出演せずに。そして私達はショーに戻ってきました、オリジナルのサウンドシステムとともに!
GLM : 反応はどうでした?
RD : かなりいいさ! 実際には、私達がJoey Jとのプレイをストップしていたので、シーンは少し落ちていたかも。9ヶ月間休んでいたのは、みんなにとって少々長かったのだ。しかし、サウンドシステムをつくっている間、その他のことはできなかったのです。
GLM : それはいつごろのこと?
RD : それは1990-91、なぜなら1991にはサウンドシステムをスタートしていたからだ。そしてそのときシーンはクールダンスしていた。Aba ShantiやIration Steppazはロンドンにそのときいなかったらね。
GLM : ライバルはいなかったのか?
RD : 特にいなかったね。ManassehやSound Iration等は、彼らでやっていたけど、その他には特にビックサウンドといえるものはなかった。私は別に私たちがビックサウンドといっているわけではない、ただ、私達の音楽は、shakaチューンとして知られていた。私達が始めだした頃には、すでにファンがいたのだ。
RD : しかし、そのときサウンドシステムの知識、技術は全くなかった。初めてのとき、私は間違った配線をし、半分のパワーでベースを鳴らしていたのだ。よって、サウンドシステムデビューはインパクトを与えることができなかった。お客さんの一人がきて、スピーカーのフェーズが外れているかなにかなっているよといった。そして私はどうしたらいい?とたずねた、そんなレベルだったのだ。そして次回に備えて、2から3人を招いて、テストし、なにが悪いかチェックし、調整したのだ。
RD : そのとき、多くのダンスプロモーターがいました。その中にはボッタクリともいえる人たちもいて、名前は挙げませんが、多分その当時を知っている人はわかるでしょう。私達は多くのダンスをやりました。それはレンタルバン(解説:サウンドシステムを動かす場合は、たいていレンタカーでトラックを用意する)をかりる値段より、安いギャラで。
RD : 我々は定期的にショーをやっていました。それからすぐ、Aba ShantiはJah tubbysの古いサウンドシステムを使うチャンスを得て、シーンに出てきました。また Iration (Steppaz)はLeeds(ロンドンから南に200キロぐらい)からロンドンにきました。私達は、一緒にダンスをプレー、クラッシュしていました。それでその時いろいろハプニングなどもあり、非常にシーンは活発でした。
GLM : そのときのトップ3といえる、チューンをおしえてもらえますか?
RD: それはもっとも難しい質問の1つだね。ほとんどテープとか残っていないので。”Prowling Lion”は曲は常に、今日に至るまでさえ、レギュラーチューンだ。わたしは、プレイしませんが、それは今でも。そう、たくさんのチューンがあります、オールドチューン、クラシック。とても多すぎで、3つを上げることはできませんよ。
GLM : OK、ではつぎに。あなたは2つのレーベルを持っています。一つはBoomshackalacka
RD: それは、Boomshackalackaはダブ用(解説:ボーカルなし)のテイクのレーベルだ。
GLM : で、Backayard Movementsレーベルは?
RD : それはボーカルテイク用だ。それはジャマイカンスタイルのルーツサウンド用なんだ。
GLM : Boomshackalackaからはじめたのですか?
RD : ええ、Boomshackalackaから始めました。兄がその名前の雑誌やっていましたから、なにかそれと関係あるような物と名前と思い、それにしました。Discplesは、私達のアーティスト名であったので、それにはしたくなかったのです。
RD : 私はBoomshackalackaレーベルとは別に、ボーカル&ルーツをリリースすることを考えました。なぜならある種のレゲエファンから、私達のダブチューンは非難されていたからです。そう、そんなチューン、ジャマイカではだれもしらない。。などそんな批判があったから、ジャマイカンスタイルでリリースする場合は、レーベルを分けたほうがいいと思いました。
RD : しかし、私がファースト・ボーカルチューン”Judgement Seat” by High Priestをリリースしようとしたとき、エコーズ(解説:UKの新聞スタイルのブラックミュージマガジン、レゲエについての情報も多かった。現在すでに廃刊)に私達のダブチューンに対して批判的なレビューがありました。べつにかまわないのですが、なぜかれらは私達に批判的だったかわかりますか?それは、どのような見方で私達に批判的なのか?
RD : 白人がレゲエとつくっている、それがなんであとろうとも)そのことだけですでに批判されたのです。エコーズのライターに私は、レーベル面にアーティストとタイトルだけを書いたレコードを送りました。そうしたら、彼はなんとよいレビューを書いたのです。もしそれがBoomshackalackaレーベルの Disciplesリズムセクションであることがわかったら、彼は批判したでしょう。(解説:白人がレゲエを作ることだけで、すでに批判の対象になっていた。そのあたりは現在でさえ非常に難しい問題を抱えている)
RD : 人は、フィルター(この場合は人種的な偏見)をかけていて、音楽をまさに正しく見ようとできない。そのため、私は別のレーベルを用意するがいいと考えました。
GLM : あなたのインタビューを読でいると、人はあなたがUKのシーンよりむしろいっそうジャマイカのシーンの中の人で、ジャマイカシーンのバイブスを自分のなかに取り込もうとしているように感じられるときがあります。どのように、いつからそのようになったのか?
RD : まあ、それはルーツであるからです。なにが起ころうともレゲエのルーツはジャマイカであります。
RD : なぜならそれは私が音楽から常に感じたものですから。 私は18歳からレゲエを聴き始めました。したがって、私が音楽から学んだことは、レゲエからだったのです。ジャマイカレゲエははソウルであり、おそらくいわいるインスピレーションを私に与えるものだったのです。
RD : 私は常にジャマイカミュージックのファンです。それが、デジタル時代に入ろうともです。ただ、ダンスホール、そしてラバダブのファンでありません。ルーツミュージックのファンです。UKからの音に影響されることはめったリありませんでした。しかし、その当時、UKサウンドを無視していたわけではではありません。なぜならたくさんのグレートなUKサウンドが生まれていたからです。
GLM : レゲエシーンが広がった現在はどうですか?US,ヨーロッパなど、いろいろなところからハイクオリティなさサウンドを聴くことができます。
RD : 多くの年が今過ぎ去りました。いろいろ変化しました、明らかに。我々がスタートした当時、Twinkle 、 Shakaしかいなかったときと比べて。
RD : 私は2つの面をいつも見ています。たとえばRuff Cutt and Stingray。これらはUKレゲエ的ではありません。ジャマイカンスタイルです。そしてジャマイカンアーティストを採用しています。
GLM : しかし、UKバイブスを感じますが。。
RD : そうです、そのレーベルはUKのものです。しかし、UKスタイトというより、ジャマイカンスタイルです。ダブ、ステッパーには関心がないタイプの、ジャマイカバイブスから生まれたものです。
GLM : 最近あなたは、ジャマイカアーティストを起用し、2から3のチューンをリリースしましたね。たとえば、Prince Malachi…
RD : Prince MalachiはUKベースだけど。。
GLM : UKですが、ジャマイカンスタイルです。質問はあなたがジャマイカンスタイルの方向に進むのか?ということですが。。
RD : それは部分的に、そして意識して行いました。Prince MalachiあきらかにUKアップカミングアーティストと違うからです。
RD : 私はレゲエボーカルが好きです。 古くはdennis brown、そしてlucianoなどなど。彼らはハイレベルなシンガーです。そして、もし私が、ボーカルチューンを作ろうとしたらなら、かれなのようなシンガーを起用します。そう、Prince Malachのような。そして、私達は、Prince Allah(解説:ジャマイカベースのベテランルーツシンガー)とのレコーディングの機会もありました。
GLM : 彼とのことはどのようにして?
RD : Prince Allahは、UKの他のプロデューサーと仕事をするためにきました。特にJah Warriorとの仕事です。そしてJonah Danはそのとき、jah warriorのためにパーカッションプレイをしていたのです。そしてJonah DanはPrince Allahとリンクし、彼に私のスタジオにいくことを推薦しました。そのとき、帰国まで2日間しか残っていませんでした。7曲ボイッシングをしました。ちょっといそぎだったののですが、それはとても興味深いものでした。そしてPrince Allaは素晴らしい人で、バイブスあふれる、そう、 “Great Stone”, “Bucket Bottom”覚えているでしょう?
GLM : ファンデーションルーツ・クラシックだ!
RD : クラシック、そしてディープルーツチューンです!たとえ、それらのチューンがリリースされてから20年間たとうとも、Prince Allahに会えたことは非常に光栄でした
。私は私のやり方で、レコードレーベルを運営しているから、ビジネスのことも考えなければいけない。よって、ローカルアーティストのことは考えませんでした。
RD : では、どうしてそのなるのか、あるアーティスを例に上げて考えて見ましょう。私達Prince Malachi、そうかれはxterminator(解説:fattis barrelプロデュース、ジャマイカンルーツレーベル、sizzle/praise jahのリリースで有名で、ハイクオリティで革新的なおとずくりで有名)からチューンをリリースしています。ですので、かれらはどうやっても、悪くいうことはできない。なぜなら、もし彼らが私達を批判したら、Prince Malachiをディスしたことになるからです。そうです、それはグットチューンで、彼らもグットチューンであることしていっます。そうそうれはほんとにグットチューンなのです。(解説:人種のちがいの問題は大きく、ここでは、白人であるRussはジャマイカ人をシンガーとして起用することによって、ある種のいわれのない批判をかわすことがかわすことができるといっている。たとえば、白人だけでレゲエバンドを組むとそれだけで批判の対象になるが、ドラマーにジャマイカンをいれると、人種的偏見の壁がはずれる)
RD : 昨年は多くのアーティストとボイッシングをしました。
GLM : 例えば。
RD : Lutan Fyah 、Bunny Lie Lie、そしてもう一人のビンテージシンガーと。私達は、またローカルシンガーと仕事もしています。私は、Christine Millを抱えています。彼女は、Tony Roots とのアルバムでハーモニーを担当しました。私は彼女のボーカルが好きで。非常に高く評価しています。また、彼女は作詞もすばらしいです。よって、彼女とは仕事をつづけるでしょう。そしてその他多くの人たちがいます。たとえばColour Redなど、たくさんのやることがあります。そうかれらをリリースするための経済的な問題なども。
GLM : Sister Rashadaは?
RD : 90年代の初頭からそんなに彼女とは仕事していないな。彼女はここをさり、どこかだれかのために、レコーディングした。彼女はUniversal Rootsレーベル(解説:RDKのMarkie Lyricsによるレーベル)こにいくつかのチューンをリリースした。しかしそれは2から3年前のことだ。彼女は彼女のやり方があるのだろ。それをだれかが、変えることはできないとおもうよ。album “Hail HIM”について、リリースしたいと、アローチしてきたレーベルがあったんだけど、そのレーベルはなくなり、私達は、正しい支払いはしてもらえなかった。まあ、いろいろ浮き沈みがあったとういうことだ。しかし、彼女は彼女の道を進み、私は私のビジネスをしているよ。そう、彼女は、Only Jah Worthy”/”Give Jah Praise”のリイシュを予定し、Hail HIMのアルバム、ダブを含めて、再発(解説:このアルバムは実際にはリリースされずにお蔵入りになっていると思われる)をはなしているところだ。
GLM : Christine Millerについてももう少しはなしてもらえますか?

RD : 2曲、彼女のタイトルをリリースしました。 最初のは「Warmonger」でした、そして次に「Come Together & Unite」です。私達はミックスダウン等、しなければいけないことが多くあります。うーんなんといえば、そうアルバム用に。とくにアーティスティックな意味でなく、アルバムとして収まるように。そして、彼女にはもっとシングルのために、いろいろなトラックでやってもらいたいことがある、そう、シングルこそ、私達がもとめていることです。さらに、経済的な問題も、なぜなら、アルバムをディストリビュートするのに、いろいろ予算が要りますからね。
RD : 私達は、もっと計画的に物事を気づき上げなくてはいけない。私は、Christineが好きです。ハートも、そして柔軟性もあります。彼女と仕事をすることは楽しみですよ、プロデューサーとして。彼女は才能があり、本当に仕事を続けていくのは楽しみです。
GLM : あなたはDanny Vibeといくつかの仕事をしましたね?
RD : そう、彼が17歳のとき、かれをここに呼んだんだ。かれはConscious Sounds studioでなにか違うことをしていた。Jonah Danはかれのボーカルをテープで聞き、そうかれはいつもConscious Sounds studioでパーカッションをたたいていたからね。。Jonah Danはコンタクトをとり、Disciplesのスタジオにくるようにいったんだ。そして、Waterlooで待ち合わせをした。
RD : そして、Waterlooにはjonah danとdanny vibesはいたわけ。Jona danはdanny vibesがどこにいるか見渡した。このとき、jonah danは声しか知らなかった、そう、ディープなボーカルだったので、年配だとおもっていたんだ。そして、携帯に電話をして、どこにいるのかたずねた。そしたら、dannyはまったくのjona danのソバにいて、ここだ、答えたので、振り返ると刈り上げたユーツがいたわけだ。Johna danは信じられなかった、そう、かれの声から17歳のユーツとは想像できなかったんだよ。そして、スタジオにきた。dannyはラバーズロックよりだったけど、ルーツにトライしてもらいたかったのさ。
RD : dannyはとても才能のあるアーティストだ。それはそれはすでにかれに備わっているものだった。そしてかれはいろいろ挑戦し、かれのオリジナルスタイルを見つけようとしていた。
RD : その上、彼は彼の長年の友達とそのグループ”Roots Conquest”とリンクしていた。まさに「オールドスクール」感覚でね。
RD : 私達は現在の一緒に仕事をしている。50曲ばかりのチューンがあり、レコード会社を通じて、アルバムをリリースすることを考えている。しかし、レコード会社とごたごたがあり、まあ、どうなるかよくわからないね。
GLM : 将来の計画は?
RD : 未来はよくわからないな。私は私のできるレベルのことをやり、そして正当な報酬をえるようにする。とにかくつづけることだ。めんどうなこともやんなくてはいけない、たとえばjah tubbysに機材を売ったり、ダブ(解説:おそらくサウンドシステムへのスペシャルダブプレートのこと)をうったり、ショーにいったり。まあ、なんとかやっていくさ。しかし、どこにいくのかはほんとにわからない。そう、メディアの失望、ディストリビューションのなさが、ちょっと、難しくしているのさ。しかし、私達はなにも急ぐことはない。
GLM : あなたが、「私達」というとき、だれのことをさすの?
RD: 私と、私の周りのアーティスト、そしてjonah danだよ。
GLM : では、将来のリリースは?
RD : そうだ、10インチのリリースの予定がある。Bunny Lie Lie “Babylonian”、そしてフランスから、Ras McBeanが同じリディムでリリースする。そしてことなるリディムのLutan FyahとKenny Knotsもだ。そして私の計画では、2つのそれらのリディムが、10インチが2枚リリースされる。
(解説:実際には、・7″:Bunny Lie Lie/Babylonians(Backyard Movement) *Babylonians ・7″:Ras Mac Bean/The Race / Disciples - Version(Backyard Movement)としてリリースされた。)
RD : そい、別に急いでいるわけではないけどね。ほかにもいろいろプロジェクトもあるし。いつも私は急いでもなんにもならないだろう、って考えているんだ。時がくれば物事は進むということだ。そして、christine Millerとすることもあるし、ダブの仕事をする時間も探さなければいけない、ビジネスでね。しかし、昔やったようにはやらない。
GLM : いっぱい他の人のためにやらなければいけないことがあるようだね、プロデュースとか。
RD : Roots Hitek(解説:Roots Hitek Playersのレーベル、UKの老舗バンドの1つ)みたいな人たちともよく仕事をする。プロダクションワークだね。リディムトラックの製作とか、 Universal Rootsとかはよく、リメイクを作れるかとかいうね、そう、それで聞くんだ、ステッパースタイル、それともワンドロップかい?私はいつも、オリジナルとは違う感じで、やろうとする。いくつかのチューンでは、できないものもあるよ、その場合は、違うことを提案したり。。
RD : そうして、ホーンが必要かどうか聞くのさ、もし必要だったらギターも必要だ、それはセットだからな。そしてギタリストをつれてくる。私はいろいろ提案し、かれらはいろいろなアイデアをもってくる。そして仕事をしていくのさ。スタジオエンジニアとしても彼らのために動いているよ。それは経済的にいって私にとっていいことなんだ。なぜなら、多くのチューンを自分自身だけではリリースすることはできない。
もし、私がだれかほかのひとのためにトラック製作などをおこなえば、小額の予算で私の名前がクレジットがされることになる。1年をとおし、わたしは私自身のレーベルからは2チューンぐらいしかリリースできないだろう。しかし、このことによって6から10曲ぐらいリリースされる。それはとてもよいことだ。そしてそれを楽しんでいる。何故なら、私が作ったら、私は私だけのものをつくる。しかし、だれかのためにためにやるということは、私のアイデアをだれかのアイデアに注入することになるからだよ。
それは興味深いことだろう。そして、リミックスもやるよ、人の為にね。それらは常にナイスなんだ。あなたはボーカルをとる、そして私はリミックスほどこす。たとえば、culturel warriors(解説:スイスは、ジェノバのサウンド)ために。5人のボーカルテイクをMurry Man, Lyrical Benjie、Collie Weed などなど。かれらは7インチをリリースするらしいよ。
(解説:いかのタイトルが、スイスのレーベルCultural Warriorsからリリースされている)
・7″:Murry Man/Push We Over(Cultural Warriors Music) *Free Your Mind
・7″:Lyrical Benjie/Living In The City(Cultural Warriors Music) *Free Your Mind
・7″:Collie Weed/Free Your Mind(Cultural Warriors Music) *Free Your Mind
・7″:Tirfinga/L’lncense(Cultural Warriors Music) *Free Your Mind
GLM : そのた、なにか最後に、これからの人にメッセージをどうぞ!
RD : 私のチューン買ってくれ!ハハハ、
GLM : 私は同じ質問をDougie Wardropにしたら、「忍耐」といっていましたよ
RD : 「忍耐」?わたしは、このインタビュー中そういっていただろう。
GLM : OK,感謝!
RD : リスペクト!










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